jiiji1941’s diary

日本の1960年末から80年代の奇跡、2000年代の奇跡の記録。

未発表の原稿 そのつづきの続きです

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私の遺書の続き 遺書ー1の続き

 


■未発表の原稿 そのつづき 23:41CommentsAdd Star

1988.2.13 16:03
   「続 丹波哲郎死者の書
    霊 界 旅 行
     丹波哲郎著 昭和55年一九八○年12.10発行」について
 この本は、明治、大正、昭和にかけて生きた一老人の経験を元に書かれた物語である。私古川元洋はこの本を読み、人の一生はすべて、何者かに与えられた役割を演じているものではないだろうかという感じを禁じ得ないのである。
 昭和二十五年十一月九日付け朝日新聞のわずか二十行足らずのバス転落事件の裏に、かくも重要なドラマがあり、かつそれが、昭和五十五年一九八0年丹波哲郎氏の「死者の書」が発行されたのを縁として、三十年後にようやく白日の下に明らかになったという事に深い感銘を受けるのである。
 *そのあらすじをご紹介させていただきます。
 所は土佐。山田町在所村。昭和二十九年七月二十六日発行の在所村公民館編『在所村史』より
ページ21
「寿永の昔 平家一族がこの地に逃れて来たと伝えられ、その伝説の背景として、附近には平家ゆかりの地名数多くあり。」と記されている。

明治十六年のある時、四国の土佐山田町在所村神賀神社の神官の家に、一人の巡礼姿の男が訪れ、
「あなた方は神賀山を掘るといっているようですが、止めなさい」
 と威厳にみちた口調で言った後、
「今から十五年後に、村の中の十四、五歳の子供を集めて山へ登らせなさい。その中から一人、神が選び出してくださるはずだ。その少年に神賀山を掘らせなさい」
 そう告げるとすぐに立ち去ってしまったそうです。

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追記 2019/5/18 22:54
上の記事のつづき

 



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2011-06-02 「霊界旅行」2CommentsAdd Star
5月24日のつづき)
 翌日、神官はそのことを村人に伝えましたが「今更止めることはできない」「神官の腰抜けよ」などと口々にいうと鍬をかついで登って行ってしまいました。しかし、一行が神賀山の七合目あたりに差しかかった時、一天にわかにかき曇り、あろうことか大雪が降り出し、結局、どうしても掘ることができずに皆逃げ帰って来てしまったと申します。
 時は移り、それから十五年後、明治三十一年、あの時の巡礼の言葉を忘れずにいた神官は、秋のある日、村内の十四、五歳の少年達を集めて、一日神賀山に「お山遊び」を行ったのであります。道みち少年達は神官から、このお山にまつわる色々な話を聞きながら山上目指して登って行きましたが、やはり七合目辺りに差しかかった時、空は見る見るうちに曇って、白昼の山頂が真暗闇となったり、急に真夏のような強烈な陽ざしが照りつけたり、さまざまな異変が目の前で次々と起こったそうです。一行があっけにとられて立ち竦んでいると、そこへ突然十五年前の巡礼がどこからともなく現れて、居並ぶ子供達の中から一人の少年を選び出し、
 「五十年経てば、この少年の手によって、平家の霊は浮かばれますぞ」
 と言って祝福したと申します。
ここ迄、さも小生(小松正継氏)自身が実際に見聞きしたかのように書き綴って参りましたが、この逸話は、実は前にも申しました『在所村史』(昭和二十九年七月二十六日発行)にも載っているもの。これ以上長々と拙文を披歴申し上げるより、手っとり早く書き写して、貴重なお時間の節約をはかりましょう。
 「その後五十年経た昭和八年、かつて『お告げ』を受けたxx少年は還暦を過ぎた身ながら自分の使命を果たそうと決意し、神賀山の奥、中津山の山腹に安徳帝の宝物を埋めた『宝蔵』を神示に頼って発掘し始めた・・・・神示によると、宝庫は『神賀中津山に船形石がある。これが御陵で西には御亀石があり、そこに宝庫がある。これをxxに渡す』と示されていた。そこで、神賀の山を奥深く分け入り丈余の鈴竹(深山笹)を押し分け、切り分け、捜す中に、その岩を見つけて四方の神々に祈りを捧げて掘り始めた。始め十余名で掘って協力者も多かったが、五年、十年と続くうちに発掘者も一人減り、二人減って、最後にはxx氏と共に林弥三郎氏、竹添古仙氏、川村佐盛氏、明石忠雄氏、竹添佐古氏の六人で村人の嘲りも知らぬ気に掘り続け、その間色々の不思議な事が現れたが今なお、御陵は発見されず、現在も尚ナゾのままで今年も神賀には白雪が降り積もっている・・・・』
 慧眼の士とお見受けする丹波先生のことですから、この一文でもう小生の申し述べたいことをご賢察されたに相違ありません。
 そうです。文中の「xx少年」「xx氏」こそ小生ゆかりの者、直載に申し上げれば小生の亡父であります。
 昭和二十九年に志半ばにして病死致しました。
 そして、お気付きのように、文中傍点を振った部分
「その間色々の不思議な事が現れた」
 とある一行の中に込められた内容こそ、小生が本当に申し上げたい”核心”の部分なのであります。
 実を申せば、先程来、何度も引用している『在所村史』は、在所村公民館編となっておりますが、かく申す小生自身、当時の編纂委員会の末座に席を連ねておりまして、話の内容が亡父のことだけに、当然、お前がまとめろということになったものの、冒頭にも申し上げました通り、いくら説明しても冷笑を浴びるだけで、事実をそのまま書くことは不可能でした。それで、いつの日にかは必ず亡父の語った真実を、遺言を、晴れて公言する時もやって来るに違いないと信じ、万感の思いを込めて、
「その間色々の不思議な事が現れた」という一行にとどめたのであります。そして今こそ、その時が正に訪れたのです

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