jiiji1941’s diary

日本の1960年末から80年代の奇跡、2000年代の奇跡の記録。

遺書ー12

私の遺書ー12

参照
https://jiiji1941.at.webry.info/201905/article_14.html


■<バス転落事故のその後>ー4 21:53


■(6月8日のー3のつづき) 21:53

1988.2.21
21:40
 (以下、「霊界旅行」の生まれ変わりの森=ペーシ226から245まで19ページ)
 どうですか、信じますか。丹波先生はあの双子は、野村時枝と探検家の生まれかわりだと信じておられる筈です。お父さんも、生まれかわりを信じているけど、この転生輪廻(てんしょうりんね)の話は由美がもっと大きくなってからしてあげよう。今はもっと大切な話をしたいと思っているんだけど、由美は宝の山の天界層がどんなところか知りたいかもしれないね。あるいは地獄の話かな。
 では先ず天界層がどんな所か教えてあげよう。と言っても、お父さんが見て来た訳ではなく、有名な本に出ている話です。どんな本かというと、近藤千雄(かずお)という人が訳した本で、イギリスのステイトン・モーゼスという人が体験した話です
(1988.1.27
23:00) インペレーターの霊訓ーーー続『霊訓』ーーー
      W・S・モーゼス著 近藤千雄訳
                昭和62年一九八七年九月十日発行
ページ210
 (二) 体外遊離による体験
 ●背後霊団との面会
 ある日モーゼスが部屋を暗くしてベッドに横になると、例の鈴の音が聞こえ、続いて光球がいくつも見えた。と思っているうちに意識を失い、次に目が覚めた時は真夜中だった。彼はみずからの意志でなしに無理やりに起こされて、次のような記事を書いた。
 「意識が消えていく時のことは何一つ記憶にない。が、暗さが次第に明るさを増し、徐々に美しい光景が展開しはじめた。私が立っていたのは確か湖のへりで、その向こうに真緑の小高い丘がいくつも連なり、ほのかなモヤが漂っていた。雰囲気はイタリヤにいる感じで、穏やかに澄みわたっていた。湖の水は波一つ立てず、見上げると雲一つない青空が広がっていた。
 
 

■<バス転落事故のその後>ー5 05:37

6月8日のつづき)
http://d.hatena.ne.jp/jiiji1941/20110608
 その岸辺を歩きながら景色の美しさに見とれていると、一人の男性が近づいてきた。メンターだった。モスリンのような薄い生地で出来た真珠のような白さのローブをまとっていた。肩に濃いサファイアブルーのマントを掛け、頭部には巾の広い深紅の帯のように見える宝冠(コロネット)をつけており、それに黄金の飾り環が付いていた。あごひげを生やし、顔に慈悲と叡智をたたえていた。
 そのメンターが鋭い、きっぱりとした口調でこう述べた。”ここは霊界です。これより霊界の一シーンをご覧に入れよう”。そう言って向きを変え、私とともに湖にそって歩いて行くと、山の麓(ふもと)の方へ行く道との分岐点に来た。その道にそって小川が流れており、その向こうには真緑の草原が広がっていた。地上のように畑で仕切られておらず、見渡すかぎりゆるやかな起伏が一面に広がっていた。
 二人はイタリヤの田園でよく見かける邸宅に似た一軒の家に近づいた。地上では見かけない種類の木の繁みの中にある。木というよりは巨大なシダに近い。その玄関の前にさまざまな色彩と種類の花が咲き乱れている花園があった。メンターに促されて後について入り、大きなホールまで来ると、その中央に花とシダの植え込みがあり、その真ん中で噴水が盛んに水を散らせていた。ホール全体にすてきな香気が漂い、また、優しく慰めるような音楽が流れていた。
 ホールのまわりにはバルコニーのようなものが付いていて、そこから住居へ通じる出入口がいくつか見えた。壁面に模様が描かれていて、よく見ると私がそこに来るまでに通って来た景色の延長になっていた。天井はなく、雲一つない青空がみえていた。
 見るものすべてが美しいので私が見とれていると、出入口の一つのドアが開いて誰かが私の方へ近づいて来た。インペレーターだった。一度見たことがあるのですぐに分かった。頭部には七つの尖頭の付いた王冠をいただき、その尖頭の先端に目も眩(くら)まんばかりの光輝を発する星が付いており、一つ一つが色が違っていた。表情には真剣さと仁愛と高貴さが満ちあふれていた。私が想像していたような年老いた感じはなく、敬虔(けん)さと厳粛(しゅく)さに優しさと威(い)厳とが交(まじ)り合った風貌(ぼう)だった。全体に漂う雰囲気と物腰には堂々あたりを払う威風があった。
 身体にはまばゆいばかりの白の長いローブをつけていた。あたかも露のしずくで出来ていて、それが朝日に照らされているみたいであった。そうした容姿全体の光輝があまりに強烈で、私にはじっと見つめていることができなかった。イエスが変容した時の姿もかくばかりかと思った。私は本能的に頭を垂れた。すると柔和でしかも真剣な声が不思議な、憂(うれ)いを込めた抑揚で私の耳にささやいたーーー”来るがよい。そなたの知人に合わせるとしよう。そしてその不信に満ちた心を癒(いや)して進ぜよう”と。そう言って手を差し出した。見るとその手に宝石が散りばめてあり、内部から燐光性の光輝を発しているように思えた。 私が唖然として見つめていると、何とも言えない荘厳な調べが耳に入ってきた。続いて私のすぐわきの出入口が開かれ、その調べがいちだんと近づいて聞こえ、長い行列の先頭を行く者の姿が目に入った。純白のローブを着ており、それを深紅の帯で締めていた。行列の全員がそうだった。帯の色だけがさまざまで、ローブは全員が純白だった。先頭の者は黄金の十字架を高々と掲(かか)げもっており、頭部には“聖”の文字を記した飾り帯を巻いていた。そのあとを二列に並んだ聖歌隊が讃美歌をうたいながらやって来る。その行列がわれわれの前までさしかかると一たん停止し、インペレーターの方を向いて敬々しくお辞儀をした。インペレーターは私より二、三歩前でそれを受けた」
 モーゼスはその行列の中に数人の見覚えのある顔を見つけた。指導霊のメンター、レクター、プルーデンス、フィロソファス、それにスエーデンボルグもいた。さらに友人のウイルバーフォース、ジョン・キーブル、アーネスト・ニール等々の顔も見えた。長い長い行列が続いたあと、その中から六人が進み出てモーゼスの方へ近づいた。そのうちの五人は地上で顔身知りの人物だったという。

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2011-06-09 <バス転落事故のその後>-6
6月8日の-5つづき)

■●右のシーンについてのインペレーターの解説(自動書紀) 06:39

モーゼスーーあれは実際のシーンだったのでしょうか。
インペレーター「今貴殿の目に映っている現実と同じく実際にあったことである。貴殿の霊が肉体から分離していたのである。その間わずかに一条の光によってつながっていた。その光線は生命の流れそのものである」
 
ーー壁が少しも障害にならずに一瞬のうちに光景が展開したように思います。その場がそのまま霊界になりました。
「霊界は肉眼には映じなくても貴殿のいる場所に存在している。霊眼が開けば霊の世界のものが見え、地上のものが見えなくなる」
ーーでは、霊の界層はわれわれ人間の身のまわりに存在するのでしょうか。
「人間のいる場所にも周囲にも存在している。空間と呼んでいるところには幾つもの界層が互いに浸透しあって存在している。このたびのことは貴殿に霊界の実在を見せんがために行(おこな)ったことで、私の要請をうけてメンターがあれだけの霊を第二界に集めてくれたのである。さまざまな界層と境涯から特別の目的のために集まってもらったのである」
ーー全員が白のローブだったのに、ひとり私の友人だけが緑色の混ざった紫のローブを着ていましたが....
「貴殿の目につくように、あのローブを着ていたのである。緑色はまだ完全に抜けきっていない地上的状態を表しており、紫色は進歩のしるしである。
1988.2.21
25:07

■(-6のつづき) 05:57

<バス転落事故のその後>-7
http://d.hatena.ne.jp/jiiji1941/20110609
 われわれの世界ではすべてが象徴的である。
 美しい花と景色は愛の神が各自の宿命に注がれる慰めとよろこびを表わしている。讃仰の行列は進歩的な霊の向上の行進を示している
。先頭を行く者が掲げていた十字架は神聖さと自己犠牲の表象である。純白のローブは清浄の象徴であり、ハープの調べは不断の讃仰の
象徴である。色とりどりの帯は各自の犠牲と、たずさわっている仕事を示し、頭部の王冠と飾り帯は霊格の象徴である」
ーーあなたはいつも私が拝見した通りの姿をしておられるのでしょうか。あのまばゆいばかりのローブは忘れようにも忘れられません

 「貴殿が見られたのは他の霊がいつも私を見ているのと同じ姿である。が、私はいつも同じ姿をしているわけではない。私が本来の界でまとう姿は貴殿には凝視できないであろう。現在の状態では無理であろう」
どうですか、残念だったね。天界層は余りにもまぶし過ぎて、見ていられない程光り輝く世界のようだね。
 もう一つ参考になる話を今の本のつづきに書いてあるから、読んでみてください。

■●「冒頭の文章の自動書記をしている自分を観察 05:57

 ”交霊界のサークルメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決める。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度によって
集まる霊の程度も決まる。このことをすべての人に分かってもらえれば有難いのであるが...”
 これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子をモーゼスが体外遊離の状態
で観察した。この様子をモーゼスが次のように記述している。
 「その日はひとりで自分の部屋にいた。ふと書きたい衝動を感じて机に向かった。それほど強烈に感じたのはほぼ二か月ぶりである。
まず最初の部分をふつうの自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。
 気がつくと、自分の身体のそばに立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして座っている自分のそばである。その様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐(ひも)によってつながっている。部屋の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。
 

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2011-06-10 <バス転落事故のその後>-8
6月9日のー7のつづき)
 その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その様子を興味ぶかそうに見守っていた。
天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。そのたびに私の身体がギクリとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。さらに気がつくと、外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。
 インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せるために用意したとのべた。レクターが書いているのであるが、私の想像とは違って、私の手を操(あやつ)っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具にすぎず、しかも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。出だしの部分を除いて、ほとんどが人間の手を使用せずに書かれたものである。イペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、そのため綴りにいくつか誤りも見られるとのことだった。事実その通りだった。
 そのあと私は、一体ここにいる(人種の異る)霊はどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。するとその疑問に答えて数人の霊が代わるがわる違う言語でしゃべってみせた。私にはさっぱり分からなかったが、インペレーターが通訳してくれた。その上さらに霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演してみせてくれた。またインペレーターは音も物的媒体なしに出すことができることを説明してくれた。その時に例の鈴の音が聞こえ、また部屋中に霊妙な芳香が漂った。
 その場にいた霊はみな前に見た時と同じ衣裳をしていた。そして、まわりの物体には何の関係もなく動きまわっていた。そのうちの何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。私自身も白のローブに青の帯をしているように見えた。さらに、どうやらその上に紫の布、一種のオーバーローブを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、部屋の中は非常に明るかった。そのうち私は、戻ってこのことを書き留めるように言われた。肉体に戻るまでのことは意識にないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張をまじえずに綴ったつもりである」
 
追記 2020/02/03 17:08
多摩センターのパルテノンの奥の多摩図書館本館の書庫に、この「インペレーターの霊訓ーーー続『霊訓ーーー」」がありました。

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多摩図書館の書庫の本

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潮文社の本



1988.2.22
20:01
こういう不思議な霊の世界の事を研究し、人間の生活に生かそうとすることをスピリチュアリズムと呼んでいます。英語で霊のことをスピリットというからです。日本語では心霊主義とでも訳すのでしょう。辞書にはスピリットの意味として最初に精神、心とあり、次に霊、それから幽霊、最後に人物となっています。スピリチュアリズムは辞書には最初に降神術とあり、その次に哲学用語として唯心論と訳してあるだけです。心霊主義というのはまだ一般には認められていないようです。しかし、お父さんは一番大切な事だと思っている。同じように思っている人が昔からいます。一八四八年のアメリカの、ある不思議な現象の研究からスピリチュアリズムは始まったのですが、その霊界の最高指導者が、イエス・キリスト様だったという事を、大川隆法氏の「イエス・キリスト霊示集」という本の中でイエス様ご自身が話をしておられるのですからマチがいないと、信じています。どうですか、信じますか。ムリに信じなくてもいいのです。由美の自由だよ。
 どのように大切かという事を、先程のモーゼスという人が書いています。訳は近藤千雄(かずお)氏です。
ページ222より
 スピリチュアリズムの意義についてーー
 「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(すみか)(死後に落着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞(こぶ)するものとしてこれほどすばらしいものはないし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
 人間は地上生活で築いた人間性そのままをたずさえて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今なお自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちもかならず自分で償(つぐな)わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっち上げても無罪放免とはならないことーー以上のことを立証し、さらにまた多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」
 日常生活の大切さについてーー

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