jiiji1941’s diary

日本の1960年末から80年代の奇跡、2000年代の奇跡の記録。

遺書ー11

私の遺書ー11


参照
https://jiiji1941.at.webry.info/201905/article_14.html
 


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2011-06-07 <バス転落事故のその後>-1
6月6日つづき)
「続・丹波哲郎死者の書
 霊 界 旅 行」 丹波哲郎
ページ65より
 ●昭和二十五年十一月十日(金)---”光の存在に導かれてーーー
 あの事故の目撃体験以来、私(小松じい様)は毎日数時間、自分で掘った穴に降りている間に”光の存在”に導かれて、死者たちと同じ世界を彷徨(ほうこう)するようになった。
 少年時代に見た、あのお遍路姿の”光の存在”が私に語った「すべてを見るだろう」という言葉は、単に事故そのものだけでなく、死者達がこれから辿(たど)って行く世界をも指していたことに、ようやく気付いたのである。
 こうして儘(まま)ならぬ筆をとって日記を記し始めたのも、この貴重な体験を私一人だけのものにしてはならないと思うからだ。私自身、後半生を賭(か)けた御陵の宝物捜しは、最早不可能に近い。が、せめてこの体験を最後の御奉公の機会ととらえて、心しようと思うのだ。
 今日は事故後三日目である。
 朝のお参りに穴へ降りて、しばらく瞑目していると急速に感覚が鋭くなってくるのが判る。近頃、やっと慣れてきた霊としての感覚である。人間としての感覚とは比べようもない鋭さでまさに百キロ先の物音でも、聴き取れそうなほどである。
 私は自分がぼんやり自分の肉体から抜けて行くのを意識する。その時”光の存在”が現れた。
 窓の外では秋雨がそぼ降っていた。これを本当の”涙雨”というのだろう。
 ふと気付くと、美良布町の合同葬儀会場に私は運ばれていた。
 うす暗く感じられる会場には、遺族をはじめ、百人近い会葬者が集まっていた。みんな息をひそめるようにしているせいか、読経の声だけが大きく響き渡るばかりで、これほど大勢の人間が集まっているとは思えないくらい、ひっそりとしていた。
 花輪や盛花・供物に埋めつくされた祭壇には、死者たちの遺影が黒いリボンに飾られて並んでいる。その前にいくつもの白木の棺が安置され、そのひとつひとつの上に、真新しい位牌と線香立てが据えられている.
 線香の煙がゆらゆらと立ち昇る先を何気なく見ると、それぞれの死者が、その五、六メートル上から自分の遺体の納められたお棺や遺族、会葬者たちを見下ろしているのが見えた。

■<バス転落事故のその後>-2 16:47

なかでも、私の眼にくっきりと見てとれたのは、見覚えのある野村時枝とその赤ん坊の姿だった。彼女の方でも私の姿を認めたらしく、ちょっと微笑んだようだった。と思う間に、スッと私の傍へ来て、これから自分は、”お迎え”に導かれてあの世へ旅立つのだという。そして、近いうちにあなたも来ることになるだろうという。 他の死者たちはどうなるのかと尋ねると、それぞれこの世にとどまる期間は違うけれど、だいたい五十日前後までには旅立つはずだ、といってニコッと笑った。 乳児を胸に抱いているせいか、何やら西洋画で見たことのある聖母のような気がした。
 あの娘も父親が誰とも判らない子を産んで世間から爪弾きにされているし、私は私で村八分の目に遭っている。そんなせいばかりでもないが、前から何度か私の穴の祭壇に供花を持ってきてくれたり、ふしぎと気の合うところがあった。 そんなことを考えているうちに、ふと気が付くと元の穴に戻っていた。」
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 どうですか、信じますか。お父さんは信じているけど、由美はまだこんな話を書いた本を読んでいないから、半信半疑だろうと思う。丹波先生はイギリスの図書館へ行ったりして、もう何年も研究されているから同じような体験談をいくつも知っておられる。由美もおじいさんとかおばあさんに聞くと、多分、一つや二つ似たような話をしてくれると思うよ。自分で自分の棺を上から眺めるという気分は、どんな気持ちだろうね。お父さんはまだこんな体験はないけど、アメリカの科学者達が一旦死んで生き返った人達の話を集めて研究しているんだよ。その本を読むとみんな意外にも、余り驚かず何となく自分の体を上から他人事のように見たり、まわりの人の動きや声を聴いて、自分はちゃんとこうしてここに居るのに、どうしてみんな自分は死んだと言っているんだろうと不思議な感じがするらしい。ニアデスつまり近似死体験の研究といいます。
 ところで、宝の山の話だけど、実は、この小松ジイ様の日記が延々と続いて、その中に宝の話が出て来るんです。先にそこの所を写しておきましょう。
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ページ220
「●x月x日
 地獄界の苦い経験に懲りて、私はしばらく天界層への道を探すのを控えていた。 それに、よく考えてみると、あの地獄界での様々な出来事は、”光の存在”が私の“使命”から逸脱(いつだつ)した行動を戒(いまし)める意味で、故意にああなるように仕組んだようにも思えたのだ。
 私の内心のこうした考えを見通したうえでそう仕向けたのか、天界層、天上界層の様子を知る機会は意外に早く訪れてきた。
 私が小さなせせらぎのほとりに佇(たたず)んで、何ということもなく、ただぼんやりと流れ行く川面を見つめていると、散歩でもしているのか見覚えのある青年が近づいてきた。 以前に時枝から紹介されたことのある長老のひとりだった。彼女の話によると、この長老は何万年もこの世界に住んでいるという。 私はいい機会だと思い、なるべくさり気なく、天界層や天上界の様相を聴き出してみた。
 長老は私の内心の思惑などまるで顧慮(こりょ)せず、昔話でもするかのように淡々と話しはじめた。
 それによると、霊界層は外見上は人間界と少しも変わらない”自然美”の世界であるのに対し、天界層はことごとくが”人工美”の世界と言っていいようだった。
 なかでも特徴的なのは、道といわず、建物の外観・内装といわず、生活空間を形づくる素材にすべてキラキラとまばゆいばかりに耀く宝石状のものが使われているところだという。
 どういう意図でそうなっているのかは、長老にも皆目見当がつかないが、人間界で言うならダイヤモンド、ルビー、サファイア、水晶、金、銀、トルコ石、・・・・・・といった高価で貴重なものとされる宝石類が、ごく無造作に敷きつめられたり、壁材として使われているという。 そして、天界人たちは、そのことをごく当り前のこととして受けとめている様子だという。
 長老のこの話を聞くうちに、胸の中にある感慨が湧(わ)き起ってきた。それは、私が老半生を賭けて取り組んできた”御陵”の宝庫捜しとも無縁ではない。

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2011-06-08
■<バス転落事故のその後>ー3 06:41

(6月7日のつづき)
 私は今の今まで、あのお遍路姿の人物が、かつて少年の私に語った「五十年経てば、この少年の手によって、平家の霊は浮かばれますぞ」という”お告げ”や、その後の、宝庫の在り処を告げる“神示”をまさに文字どおりに受けとっていた。つまり、適当な穴を掘りあてさえすれば宝物が発見でき、それによって平家の霊も浮かばれるものと信じきっていたのである。だが、お遍路姿の人物の語った真意は別のところにある...。たとえば、この宝石状のもので光り耀くという“天界層”の存在を暗に示していたのではないか...。言いかえれば、やがて私が”天界層”を見る運命にあるということを諭(さと)されたのではないか、と思い当ったのだ。
 だとすると、私が天界層を見聞できるチャンスは大いにあるのではないか。知らず知らず期待に胸がふくらむのが、自分でも判った。同時に、天界人には比べようもないけれど、宝物を得るという現世的な利益(りやく)に少なからず心を奪われていたわが身の矮小(わいしょう)さを改めて思い知らされもしたのである。
 ページ222
ーー天界層や天上界について、たいそう関心がある様子だね。
ーー実は、人間界で縁(ゆかり)のあったもののその後の動向を調べていまして。霊界層にも地獄界にも姿の見えないものが、もしかして天界層や天上界へ行っているのではないかと思ったものですから。
ーー先刻も言ったように、天上界のことはよく判らないが、天界層へは、確かにその縁のあるものが何人か渡ったようだ。
 長老の語るその容姿から判断すると、あの二十五人の中で天界層へ渡ったのは、どうやら洋裁業の池田ふみと、意外にもいつも笑っているだけの印象しかなかったあの日雇の山崎忠吉であるようだった。
 なぜあの二人だけが天界層へ行ったのか、大いに疑問だったが、長老の説明では、もともと、天界層の住人だった二人は、何かの都合で呼びもどされたのだろうという。天界層の住人が人間界に生まれて来るのは、それぞれ使命を帯びているはずだがと首をかしげた。