jiiji1941’s diary

日本の1960年末から80年代の奇跡、2000年代の奇跡の記録。

遺書ー10

私の遺書ー10

参照
https://jiiji1941.at.webry.info/201905/article_14.html

http://d.hatena.ne.jp/jiiji1941/20110605


A study for 911,10-14-08 and 2012ascension truths


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2011-06-05 第一章 宝の山ー4
6月4日のつづき)
(-3を6月5日の朝5;56分にアップしました。6月4日のー2の下に追加されてしまいました。)

06:26

 丹波哲郎さんはこの手紙を読むと、すぐ、事実を確かめるために、さっそく高知へ飛びました。まるで、金田一京助のように、助手のOさん出版社社員と一緒に、警察や新聞社、勿論現場へも行かれました。
 言い忘れてましたが丹波哲郎さんの所へ、今の話を書いた人が手紙を出したのは一九八0年五月二日の事だったのです。事故のあった時から既に三十年過ぎていたのです。

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http://d.hatena.ne.jp/jiiji1941/20110606

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2011-06-06
■第一章 宝の山ー5 06:49

6月5日のつづき)
 三十年前の事実を証明するものとして、丹波哲郎さんは先程の朝日新聞とか高知新聞を実際に見て写真に取り本の中に載せておられます。
 警察の事故当時の調書も特別に見せてもらい、運転手の証言も載っていますから、それも書いておきましょう。
 「右肩脱臼、頭部裂傷、全治一カ月の重傷を受け、当時香美郡山田町西町宇賀病院で手当てを受けたXX運転手の証言ーーー
「当日正午ごろ自宅で神祭りのながれ酒を湯呑みで一杯飲んだが格別酔いもせず、午後四時過ぎには神母木(かもぎ)行きの運転も無事に終わったので、再び六時十五分のあの車に乗務した。
 転落箇所は道路の左側につけてカーブするように運転するので、この時内側の車輪は幾分浮くことになる。転落地点に差しかかったときは他の車との行き違いもなく、二十ないし二十五キロ(時速)の速度であったが、車体が追い込むようになりだしたので右へハンドルを切ったが、ついに回らずアッと思う間に転落した。気が付くと夢中で起き上がり、乗客の救助を頼むため、ケガのない左手でガケをはい上がり、後続の美良布方面行きバスへ連絡した。
 頭が混乱しているのでハッキリしたことは言えないが、原因の一部には満員のため車体の安定度を欠いた点があるかも知れない。犠牲者とその家族には申し訳ない。今では死に遅れたことを非常に苦しんでいる・・・・・・」
運転手さんは何故、無灯火の自転車の事を言ってないんだろう。やっぱり、あの見たというおじいさんの話はウソだったのだろうか。考えて読み直してみると、家を出たのが四時過ぎで二時間程の”御陵”に着いたのが五時頃だったというのはおかしい。六時過ぎの筈なのにね。しかし、事故は六時五十分ごろだから、あの不思議な金縛りのあったのは三十分位の間とすれば、時間的には納得できると思う。
 それはさておき、あのおじいさんはその後どうしたのかというと、昭和二十九年にとうとう宝物は見つけられずに病死致しました。その息子さんの気持としては、自分のお父さんの話を誰も信じてくれないのが残念だったのです。「たった一人でもこのことを信じて下さる方がいらっしゃれば、私はもうそれで十分満足なのであります。」と手紙に書かれました。
 実は、これで話が終わるのではなくて、これからが本当に不思議な宝の話が始まるのです。丹波哲郎さんはさすがあの世の世界の専門家です。この話だけで終わる筈がない。もっと先がある筈だとお考えになって、その息子さんの家を見つけ出し、もっと何か残されている筈ですがと何度も電話や手紙を出して問い合わせをされたのです。その時息子さんは夫婦揃ってお遍路参りに出掛けて、いつ戻るか判らなかったということです。しかし、とうとう一カ月程して返事が来たのです。
「前略
 娘婿より、丹波先生から何度もご連絡戴いた旨知らされ、もったいないやら申し訳ないやらで、周章狼狽(ろうばい)し、取るものも取りあえずお手紙を差し上げるような次第です。しかも伺いますれば、先生自ら、わざわざ土佐にまで起こし下さったとの由。ひたすら恐縮するばかりでございます。
 さて、お尋ねの向きでございますが、かいつまんで申し上げますと、
 一、 小生が父の話を口述筆記したノートは先般、手紙にしたためましたとおりで、いかなる手も加えておりません。(まさに重複部分を整理し、高知弁を標準語になおしただけであります。)
 二、 従って、さらに続く話を小生が勝手に削除・省略した事実はございません。
 三、 父があの事故当夜の不思議な体験の他に、とくべつな事を語ったという記憶はございません。
 四、 父自身がノートや日記のようなものをつけているのを、少なくとも家の中では見たことがありませんでした。
 五、 父が小生以外の誰か親しい人間、たとえば、昔、一緒に穴を掘った仲間に、同様の事故直後の体験を語った事実はないか、とのお尋ねですが、父は昔の仲間ともまったく没交渉でありまして、後年、人嫌いの傾向はますます強まるばかりでありました。従って、お尋ねのような事実は無かったものと推察いたします。
 父は亡くなる三年程前から例の穴へお参りすることが少なくなり、そのかわり週に二、三度のわりで近郷へ出かけて行くようになりました。はじめ何処(どこ)へ行くのか、と不信に思っておりましたが、一年後にその理由も判明致しました。それは先生のお尋ねの件とは全く無関係なことでございました。
 六、 ちちが掘った穴は、現在はどうなっているのか、わかりません。なにぶんにも山深いところゆえ、埋ってしまったのか、そのまゝになっているのか・・・・・・。
 七、 父が亡くなったとき、その穴で何かを見つけなかったか、というお尋ねですが、それは確かにございました。とはいっても、小生自身そのことをすっかり失念致しておりましたが、先生のご質問で、もしやと思い、父の遺品類を納めた行李(こうり)を納戸(なんど)より出してみましたところ、源氏の白旗、平氏の紅旗ののぼりなどの間から、油紙につつまれた分厚いノートが出て参りました。初めの方に書きましたように、小生は家で父が何か書きものをしている姿など、ついぞ見たことがありませんもので、こんなノートを父が遺(のこ)していたとは予想だにしておりませんでした。
 ご推察のとおり、同封したノートがそれでございます。とにかく、先ず先生の処にお送りするのが急務と考えましたので、どの様なことが書かれているのかも吟味せず同封致しました。お役に立つかどうか判りませんが、どうかご一読のうえ、また何か小生で判ることがありましたら、ご遠慮なくお申し付け下さいませ。
 とり急ぎ、お詫び方々、お知らせまで。
          早々
        小松正継                              
 丹波哲郎先生
(1988.2.17 27:35)